日曜日, 10月 11, 2020
カーポートは外の部屋
10月になって、冬タイヤの交換日を予約することになった。もうすぐ、白い雪の季節がやってくるのだ。本当は、雪をこの目で見てから慌てて車のディーラーの担当者に連絡するのがお約束で、今年はまだ雪の気配がないからと高をくくっているつもりだった。天気予報と仕事のスケジュールをにらみながら、雪と競争するような感覚が楽しかったのだが、そうした慌ただしさを楽しむ体力が無くなってきた。雪国では、車に対してもひと手間かけなければならない。
水曜日, 9月 30, 2020
内覧会(オープンハウス)無事終了しました
26,27の両日、開催した「木とコンクリートブロックの家」の内覧会(オープンハウス)が無事終了しました。直前のご案内にも関わらず、たくさんのご来場を感謝しています。
また、クライアント様のご協力を得てこうした内覧会の機会を作りたいと考えています。
金曜日, 8月 21, 2020
月曜日, 7月 20, 2020
水曜日, 6月 24, 2020
道具の周辺
道具の周辺、という記事を、週刊ブロック通信「コンクリートブロック住宅の系譜」に掲載しました。ブロック工事における詳細を記録するうえで必要な職人の道具を現場取材したものです。何一つ特殊なものはなく、他の工事でも使用されている道具が多くあります。つまり、左官工と鉄筋工、および大工に共通する工事なのだと道具から再認識します。平均10キログラム程度の重量物を片手で持ち上げる筋力が欠かせない力仕事ですから、筋力をアシストする最近の道具も必要になるのではないでしょうか。
日曜日, 6月 14, 2020
水曜日, 6月 03, 2020
スカート断熱
5月の週刊ブロック通信は、「スカート断熱」についてのレポートです。
積雪寒冷地の建築は、厳しい気候風土の制約のうえに成り立っているものだから、制約の少ない地域の建築とは異なる様々な創意工夫の技術があり、それが必要とされてきた歴史がある。そのひとつが、「スカート断熱」だ。
土曜日, 5月 30, 2020
ブロック積のショートビデオ~その1
コンクリートブロック積の様子をショートビデオにしました。
15センチ厚のブロックを軽々と持ち上げ水糸に沿って水平に並べる。微調整をするハンマー音だけが心地よく響く。静かな現場です。職人さんのマスクで息使いさえも聞こえない。
25秒のパフォーマンス。
木曜日, 4月 16, 2020
煙突と太陽光パネル
週刊ブロック通信の最新コラムです。
こうした業界紙、この場合はコンクリート関連業種ですが、日々の業界の動きドキュメントが記事になる。現在、多くの企業で通常勤務が在宅勤務となり、展示会・イベントや会議が自粛されているため取材のネタに困るのだという。そこで、今まで直接足で稼いでいた取材をオンラインでするらしい。考えてみればこのコラムも一方的なデータ送信による入稿だから、同じようなものかとも思うがどうだろう。好き勝手にテーマを決めて原稿をいろいろ募れば、意外と面白い紙面が作れるのかもしれない。編集者の意思がなければただのアンケート集で業界紙にならないかもしれないが…とそんなことを考えたりしている。
こうした業界紙、この場合はコンクリート関連業種ですが、日々の業界の動きドキュメントが記事になる。現在、多くの企業で通常勤務が在宅勤務となり、展示会・イベントや会議が自粛されているため取材のネタに困るのだという。そこで、今まで直接足で稼いでいた取材をオンラインでするらしい。考えてみればこのコラムも一方的なデータ送信による入稿だから、同じようなものかとも思うがどうだろう。好き勝手にテーマを決めて原稿をいろいろ募れば、意外と面白い紙面が作れるのかもしれない。編集者の意思がなければただのアンケート集で業界紙にならないかもしれないが…とそんなことを考えたりしている。
水曜日, 4月 01, 2020
ああ原点
1977年の文章を再録します。当時、弱冠26歳、仕事柄、環境や地域を考えだしたころ、北海道建設新聞という業界紙コラムに書いた。どういうわけか、時間経過を感じさせる黄ばんだ紙面が残っていた。いま思えば、日常の当事者意識ということを言いたかったのだろう。
ああ原点~強い太陽に着色された青空。赤茶色の砂漠。三人の女たちがこちらを向いている。それぞれに幼児を腰に乗せるように抱きかかえている。その身体を薄い原色のサリーが包む。褐色の額とみけんに紅化粧が見える。銀の髪飾り、鼻輪、白いブレスレットがわきのすぐ下まで連なっているのが見える。黒い影を映す砂を踏みしめた裸足の足首に鈴の付いた足輪が見える。ふと目を頭の右上に向けると「ああ原点」、目を足もとに落とすと「PARCO」の文字が印刷されている。最近見たポスターだ。幼児の抱き方、アクセサリーの数、様式のある服装などに「インド女」というステレオタイプ化したイメージを持ってしまう。そして、文字を読ませ、記憶させてしまう。コマーシャルポスターの役割は、それで十分果たされたことになる。しかし、僕の目の中には「インド女」「原点」「PARCO」といった記憶された文字と映像とがいつまでも併置されたままだ。それらが重なり合ってこない。分かりすぎるせいかもしれない。「インド女=原点=PARCO」といったお調子の良さに閉口しているといったらいいだろうか。たちどころに了解してしまう号令。厚さを持たないペラペラの紙面にプリントされた、表面そのものとしての号令が、僕の目の中を堂々巡りする。
そして印度~昨年の暮れ、ある集まりで「そして印度」と題したスライドを映したことがあった。インドの雑多なスナップ写真と札幌のそれを重ね合わせることによって生じるズレを見ようとする試みだった。その時、距離ということがキーワードとしてあった。単に比較としてのズレではない。絶対的ともいえる距離のズレをはっきりさせる。そうして、地点そのものに迫ろうとした。しかし、小細工ともいえる操作性だけが目立ってしまうことになって、なかなか要領を得ないまま距離という言葉だけが頭に残ることになった。バス停までの距離、そしてインドまでの距離。日常、そして非日常。それらがなんらかの関係を成立させようとする。ポスターを見たのは、ちょうどそんな時だった。ひょういと来たバスに乗り込み、降りた地点がカジュラホ村、赤茶色したその砂の上、褐色の裸足のインド女たちに出会うことができる。また次のバス停は、朝もやの中、真っ赤な太陽が昇るベナレスのガンガで彼女たちと再会することができる。そして、直に来た帰りのバスで、一足飛びに元のバス停に降り立つことができる。そんな具合にポスターは僕らを手招きしていないだろうか。彼女たちへの膨大な距離などこれっぽちも感じ取れないだろう。手垢にまみれているはずの距離は清潔に洗い落とされ、触れることの警戒心などちっとも抱かせないのだ。物価以外は十年来変化ないと言われるインド。そのインド女とファッション。この奇妙な組み合わせの表面に見え隠れするものはいったい何なのだろう。
距離~どこからでもいい。いま200メートルほど先までの距離をどれほど詳しく記憶しているだろうか。自信をもって思い出せる距離は意外と短く不連続ではないだろうか。バス停までの距離はそういった日常そのものとしての距離の別名だ。歩き慣れた、目をつむっていても歩けるバス停までの距離。それを、まさに目をつむって歩いていたのではあるまいかと考えたとき、インドまでの距離という非日常がズレとして出現する。
いま、環境・地域といった時、この二つの距離はどのような意味を帯びるのだろうか。
当時サラメシで通ったレストランの壁にあったのを譲り受けた。石岡瑛子氏ディレクションで有名なポスター。 |
ああ原点~強い太陽に着色された青空。赤茶色の砂漠。三人の女たちがこちらを向いている。それぞれに幼児を腰に乗せるように抱きかかえている。その身体を薄い原色のサリーが包む。褐色の額とみけんに紅化粧が見える。銀の髪飾り、鼻輪、白いブレスレットがわきのすぐ下まで連なっているのが見える。黒い影を映す砂を踏みしめた裸足の足首に鈴の付いた足輪が見える。ふと目を頭の右上に向けると「ああ原点」、目を足もとに落とすと「PARCO」の文字が印刷されている。最近見たポスターだ。幼児の抱き方、アクセサリーの数、様式のある服装などに「インド女」というステレオタイプ化したイメージを持ってしまう。そして、文字を読ませ、記憶させてしまう。コマーシャルポスターの役割は、それで十分果たされたことになる。しかし、僕の目の中には「インド女」「原点」「PARCO」といった記憶された文字と映像とがいつまでも併置されたままだ。それらが重なり合ってこない。分かりすぎるせいかもしれない。「インド女=原点=PARCO」といったお調子の良さに閉口しているといったらいいだろうか。たちどころに了解してしまう号令。厚さを持たないペラペラの紙面にプリントされた、表面そのものとしての号令が、僕の目の中を堂々巡りする。
そして印度~昨年の暮れ、ある集まりで「そして印度」と題したスライドを映したことがあった。インドの雑多なスナップ写真と札幌のそれを重ね合わせることによって生じるズレを見ようとする試みだった。その時、距離ということがキーワードとしてあった。単に比較としてのズレではない。絶対的ともいえる距離のズレをはっきりさせる。そうして、地点そのものに迫ろうとした。しかし、小細工ともいえる操作性だけが目立ってしまうことになって、なかなか要領を得ないまま距離という言葉だけが頭に残ることになった。バス停までの距離、そしてインドまでの距離。日常、そして非日常。それらがなんらかの関係を成立させようとする。ポスターを見たのは、ちょうどそんな時だった。ひょういと来たバスに乗り込み、降りた地点がカジュラホ村、赤茶色したその砂の上、褐色の裸足のインド女たちに出会うことができる。また次のバス停は、朝もやの中、真っ赤な太陽が昇るベナレスのガンガで彼女たちと再会することができる。そして、直に来た帰りのバスで、一足飛びに元のバス停に降り立つことができる。そんな具合にポスターは僕らを手招きしていないだろうか。彼女たちへの膨大な距離などこれっぽちも感じ取れないだろう。手垢にまみれているはずの距離は清潔に洗い落とされ、触れることの警戒心などちっとも抱かせないのだ。物価以外は十年来変化ないと言われるインド。そのインド女とファッション。この奇妙な組み合わせの表面に見え隠れするものはいったい何なのだろう。
距離~どこからでもいい。いま200メートルほど先までの距離をどれほど詳しく記憶しているだろうか。自信をもって思い出せる距離は意外と短く不連続ではないだろうか。バス停までの距離はそういった日常そのものとしての距離の別名だ。歩き慣れた、目をつむっていても歩けるバス停までの距離。それを、まさに目をつむって歩いていたのではあるまいかと考えたとき、インドまでの距離という非日常がズレとして出現する。
いま、環境・地域といった時、この二つの距離はどのような意味を帯びるのだろうか。
金曜日, 3月 20, 2020
軽量鉄骨梁ー3
火曜日, 3月 17, 2020
月曜日, 3月 16, 2020
薪ストーブ
クライアントの話では、堅牢な家、留守がちな共働きでも安心な家を求めたのは、1995年の阪神淡路大震災を教訓にしたからだという。以来25年が経過した。
そして2011年に発生した東日本大震災後は、電力需要を見直し、カーポート屋根上に太陽光パネルを取り付けてもいた。そうしたクライアントの想いを設計者の私が知ることになるのは、北海道胆振東部地震の2018年、数日間の大停電の教訓から「薪ストーブ」を検討したいとの相談が寄せられた時だった。
それから2年、水まわり設備などの改修工事と共に「薪ストーブ」が玄関ホールに取り付けられた。
金曜日, 3月 13, 2020
ロングテールのミッション
月一掲載のコラム「ブロック住宅の系譜」今月は、過去30年のブロック住宅30軒をグラフで振り返ってみました。私どもの限られた活動範囲内の統計ではありますが世の中の動きを反映していることは明らかです。これからもロングテールで継続していくことが最低限のミッション、そう週刊ブロック通信社編集長からゲキがきました。
火曜日, 2月 18, 2020
木曜日, 2月 13, 2020
火曜日, 2月 04, 2020
ペーパークラフト版カスタマイズできる家
木曜日, 1月 30, 2020
火曜日, 1月 21, 2020
GAJAPAN162~年の初めに
新年早々、本屋の行商人OさんがGAJAPAN162号を運んできてくれた。「建築2019/2020総括と展望、」という表題。Oさんが帰った後、おもむろに開いた。巻末近く「立衛散考ルイス・カーン2」に興味を持った。建築家・西沢立衛氏(以下立衛氏)が有名なルイス・カーンの建築論集「I love beginnings=わたしは元初を愛する」を読み解いている。最初に、ルイス・カーン(以下カーン)への感想と質問を持っている、と言う。テキストとして挙げている数冊は、私の本棚にもあるから、たぶん多くの建築家の本棚にもあるものだろう。私は、立衛氏がカーンに質問を持ちつつ読み進める姿勢に驚いた。そして立衛氏自身の建築設計の経験と重ねながらカーンの文章を消化吸収していく姿は実に見事だ。私は立衛氏が咀嚼してくれた栄養分を有難くいただく読者の一人。どれほどテキストを読み込んだらこのような論考にたどり着くのだろうかと…驚く。一般的に日本語は微妙なニュアンスを多様に表現できる言語と言われるのだが、英語もまたそうなのだろうと私は思う。beginning,beginnings,the beginningに見る数や冠詞の意味は深く大きい。立衛氏の文章が気づかせてくれる。ちなみに「立衛散考ルイス・カーン1」は、GAJAPAN161号巻末にある。そこには立衛氏のカーンとの出会い、が書かれている。
私自身のカーンとの出会いは、ほとんど予備知識なしにカーンの工事現場に足を踏み入れたことから始まる。1975年2月15日、その日は私自身の24回目の誕生日だった。4週間のインド・ネパール旅行の最終にバングラデシュを目指した。当時、首都ダッカは内戦や洪水の傷痕が残り、食料配給を待つ人々の行列や難民たちが累々と街中にあふれていた。私は、初めての土地にもかかわらず地図も持たず迷わず人力車に飛び乗り空港近くのバングラデシュ国会議事堂に向かった。実は、着陸する飛行機から建物の一部が運よく見えていたのだ。それは、工事現場そのものだった。議員宿舎棟が完成して職員が入居していたものの、ほぼ1年前、1974年3月17日にカーンが急逝した時点から工事がストップしていたようだ。私は、ちょうど出会った議事堂職員の案内で自由に見学することができた。と、いっても工事現場、勝手に見て行けといった具合で途中から職員もどこかに消えた。小一時間歩き回っただろうか。最初の場所に戻り振り返ると、先ほどの人力車夫が池でふんどし?一枚になって洗濯をしていた。私は、レンガ造建築群が白大理石で象嵌されたコンクリート造の議事堂を取り囲む全体配置がはっきり理解できた。その印象はレンガがことのほか強烈で、数週間前に見ていた仏教遺跡に建つレンガの塊ような仏塔が頭に浮かぶほどだった。それが、私のカーンとの出会い。今年、もう一度ルイス・カーンを読み直してみたい。
水曜日, 12月 18, 2019
コンクリートブロックマニア~キッチン
コンクリートブロックでいろいろな家具や器具を作ることができる。今回はキッチンを作った。コンクリートブロックはベースユニット、天板のステンレスを台座として支えている。内側にミーレの食洗器を格納した。独特の存在感は画像を見ていただくとわかる。
月曜日, 12月 16, 2019
コンクリートブロックマニア~ブロック造二重壁工法
左側から右側へ~外装材+空気層+断熱層+内部躯体、縦横つなぎ鉄筋。 |
「ブロック造二重壁工法とは、補強コンクリートブロック造を外断熱し、その外装仕上げにブロックを化粧積する工法をいう」(鈴木憲三氏、2006年日本建築学会技術報告集第16号より抜粋)北海道のコンクリートブロック造は、外断熱化の必要から内部を構造躯体に、外部を外装材とし、中間部に断熱層を設けた二重壁ブロック造住宅が出現して1970~80年代に一世を風靡した。内外共にブロックが見え、モノリシックでマッシブな壁体を表現でき、さまざまな設計の要望に応えることのできる工法になった。構造は、基礎と臥梁に挟まれたブロック壁体を鉄筋でつなぎ、ブロック強度および壁量と配置のバランスを考慮し調整する。中間部の断熱材は耐久性のあるポリスチレンボードを躯体側に固定する。外装材は帳壁として自立させ、倒れこみを抑えるためクランク状のつなぎ鉄筋を縦筋に絡め固定している。またコンクリートブロックの蓄熱性を生かした室内温熱環境が期待できる工法である。
土曜日, 12月 14, 2019
コンクリートブロックマニア~オキナワブロック
オキナワブロックは、魅力的な材料である。
「小屋群住居A」のキッチンと食卓に面するコンクリートブロック壁を何らかの方法で明るくする必要があり、いろいろ探している中でオキナワブロックという名称の透かしブロックいわゆる花ブロックに出会った。北海道の現場へ、生産地の沖縄から日本列島を縦断。
キッチン横のコンクリートブロック壁に14個のオキナワブロックを組み込む。光が透過する。
火曜日, 12月 10, 2019
連結農家、アノニマスな住居
最後の図は、数世代を経て成長した「連結農家」の姿です。南北方向に走る道路に沿って建てられた家屋が、道路に近いほうから順に奥へ向かって増築されています。風土の季節風の影響を避け、太陽の恵みを最大限に享受するかのように南側に庭が作られている。北海道と同じ冬の季節が厳しい米国NH(ニューハンプシャー州)の例です。また写真は、農家と断定することは出来ませんが同様に連結する建築として出会ったMA(マサチューセッツ州)の事例です。これらの観察から私の「小屋群住居」の発想が生まれたのです。
水曜日, 12月 04, 2019
ブロック造住宅の系譜20191125
週刊ブロック通信11月25日号に「北海道のコンクリートブロック団地」を寄稿しました。
11月12日に行った町営住宅の見学レポートです。以下、文面を載せます。北海道のコンクリートブロック団地
1960年代から70年代にかけて、北海道で大量に供給された簡易耐火平屋建コンクリートブロック造公営住宅(簡平CB造)が、現在どうなっているのか知りたいと思っていた。先日、新ひだか町役場で公営住宅を担当する亀田主査の案内で静内神森(しずないかみもり)団地を見学する機会があった。馬産地として知られる日高地方は、太平洋と日高山脈にはさまれた海岸線に沿って街が点在している。静内神森団地はそうした街と海を見下ろす一画にある。今から10年ほど前、全面リフォーム工事された。トータルリモデルと呼ばれる公営住宅整備事業。構造性能を検証したうえでCB造躯体を残し改善された良質のストックをつくる。ここでは、簡平CB造棟は、5棟のうち2棟を解体し3棟配置とした。隣棟間隔を広げ、駐車スペースを確保。長屋形式の4戸1棟となる。
今回、事前に5~60年前の簡平CB造も見学し、全面リフォーム後の変化が確認できた三点について述べたい。第一に、躯体コンクリートブロックをそのまま残したことが最大の特徴。外部は、スカート断熱を採用した基礎断熱で全面外断熱された。開口部は樹脂サッシでペアガラス。熱交換換気を組み合わせて高性能な温熱環境を確保している。
第二に、内部は床下全面に捨コン打設し束立て床組みすることで室内化した。改変されたのは、水まわり、床の段差、建具の幅など、
内部の飛躍的な変化が見られた。第三に、居住者と管理者の関係。当事者間のやり取りから合理的に考えられている、ガス機器などはリース契約。居住者への配慮も多く、玄関前に増設された木造ポーチは寒い北風と積雪から守ってくれる。玄関まわりでは居住者による改変が見受けられた。ファサードに愛着とアクセントを作り出しているのだが、こうしたことも住宅風景として大切なことだ。
第一種換気の給排気フードが小屋根に見える。
外断熱のため外壁総厚が300mm程度になる。
火曜日, 12月 03, 2019
小屋群住居を考える1
2019年11月29日の建築学会北海道支部建築作品フォーラムにおいて、
司会者から質問があった件の説明です。
小屋群住居は、個室群住居とどう違うのかという質問がありました。
想定していなかった質問なので、正直なところ答えに窮しました。
ここで改めて考えをまとめてみようと思いブログにしました。
司会者が言う個室群住居とは、1970年前後に黒澤隆さんが発表したもので、
家族の関係性をいわば抽象化してプランニングに落とし込んでいくものです。
具体的には、家族の例えば夫婦の個室をそれぞれ独立したプライベート空間とし、
居間などの共通部分をパブリック空間と定義、その関係性を考察するものでした。
その後、昭和から平成の時代の中で家族の在り方とその多様性に対応するように、
建築領域よりはむしろ社会学の分野でより深化し展開した問題意識と考えています。
家族意識やいわゆるジェンダー論、上野千鶴子さんの女性学などの方向でしょうか。
黒澤隆さんの個室群住居は、抽象化した優れたプランニング論であったと思います。
一方、私の小屋群住居は、むしろ具象化でありデザイン方法論だと思っています。
日常生活が営まれるアノニマスな建築観察から発想したタイポロジ―で、建築的です。
例えば建築家なしの建築に見られるような長い時間をかけてつくられた群としての建築をはじめから仕掛けることによって、物語性を建築に与えることができると考えたのです。
例えば建築家なしの建築に見られるような長い時間をかけてつくられた群としての建築をはじめから仕掛けることによって、物語性を建築に与えることができると考えたのです。
幾世代もにわたり増築されてきた農家住宅を観察すると、物語を発見することができる。
そうした物語には豊かな人間の歴史が語られているものです。
そのプロセスを逆にさかのぼる。あえて初めに形をつくるアプローチがあると思います。
そのプロセスを逆にさかのぼる。あえて初めに形をつくるアプローチがあると思います。
小屋群住居は、具体的な家族の風景を込めた住居単位(小屋)をつなげていくこと、
いわば具象を抽象的に構成するプロセスを建築化する作業です。
最近出会った言葉があって「歴史を模倣する」という言葉ですが、
これが妙に腑に落ちました。
これが妙に腑に落ちました。
模倣は、データを駆使するAIが得意な分野ですから、これからの時代に展開していく予感があります。
どなたか一緒に考えてくれる方がいらっしゃいましたら是非お声をかけてください。
土曜日, 11月 16, 2019
浦河教会新築
浦河新教会完成イメージ/設計:山之内建築研究所 山之内裕一
教会建設委員会から多くのそして大切な使命を託されました。
建築をつくる機会に感謝しつつその喜びを分かち合いたいと思います。
教会は、広く皆様の寄付によって建設します。
応援していただける方々、興味のある方々は下記のサイトをご覧ください。
https://urakawach.net ( 日本キリスト教団 浦河教会)
現在、浦河教会は来年の新築を目指しています。
私・山之内裕一は建築設計監理の指名を受けています。教会建設委員会から多くのそして大切な使命を託されました。
建築をつくる機会に感謝しつつその喜びを分かち合いたいと思います。
教会は、広く皆様の寄付によって建設します。
応援していただける方々、興味のある方々は下記のサイトをご覧ください。
https://urakawach.net ( 日本キリスト教団 浦河教会)
土曜日, 10月 19, 2019
小屋群住居A
10月21日号のコンクリート製品業界紙「週刊ブロック通信」は「小屋群住居A]を載せています。
斜面に住居を組積する
敷地は北海道の中心都市旭川市の一画、JR富良野線に沿って北に流れる美瑛川を見渡す小高い丘にある。前面道路から6~7メートルほど高低差があり、ナナカマドなどの原生林に覆われ、都市化された周辺と対照的な森の記憶を残している。こうした傾斜地に建築する以上、ある程度の困難は織り込み済み。ところが、いざ蓋を開けてみると地区計画、開発行為が待ち受け、とどめは冬期間の施工不可能状態で、ほぼ丸1年を敷地形成に費やした。
法規と計画による相当量の切土と樹木伐採をおこない、斜面の北側隣地境界線に沿う形で住居が配された。半径62メートルの円弧が約30メートルのコンクリートブロック壁として、住居が斜面に置き換わった。
平屋の個人住宅である。プランは居間や個室という単位空間を小屋に見立て併置する連結型配置とした。かつて私は「小屋群住居」は、アノニマスに数世代かけて家族が紡いだ住宅の形姿を、あらかじめ時間を凝縮し意図的に構築する試みだと述べた(小屋群・住居・街並み/2015年10.19号)。原始の森を切り拓き、平地をつくり建築空間を置く。通りから奥へ、街から森へ、公からプライベートへ、連結する外壁をたどり森の奥深く潜入する住居をイメージした。連結型住居にはそのような時空を駆け巡る空間、大地の記憶と重ねることができる力強い住居が可能であると考えた。
自然環境厳しい北海道では、住居の温熱性能が日々進化している。もちろん温熱性能は大事だが、私は同時に美しく感動する空間を期待する。かつて北海道の民家と称された三角屋根コンクリートブロック住宅の温熱環境は未完であった。現在、コンクリートブロック造は技術的進化を遂げている。蓄熱効果という木造住居では得られない新しい価値が期待されているのである。
(設計/山之内裕一・山之内建築研究所)
金曜日, 9月 20, 2019
北海道の民家
「北海道の住宅と住様式」(1982年)の中で、足達富士夫(当時北大教授)は「北海道は、その歴史事情からして、まだ独自の民家を持っていない。(中略)住宅供給公社のいわゆる「三角屋根」の住宅などはその一つで、コンパクトにまとめられて、しかも合理的な平面と、単純だが雪処理にもすぐれ、形の安定している外観は、北海道の民家の可能性を示すに足る優れた成果である。」として三角屋根住宅の可能性を評価した。同時に、後述ではいまだ未完成であるとしてさらなる開発を促している。37年前のことだ。
水曜日, 7月 24, 2019
無人駅の物置小屋
7月22日発刊の「週刊ブロック通信」では、JR北海道浦河・荻伏駅構内に建つ物置小屋を取り上げている。2m×2mほどのブロック造で、用途は不明。公道から撮影した写真から簡単な図面を作成した。庭に置いて読書小屋にもなりそうな片流れ屋根の可愛らしい形態だとふと思ったりする。圧倒的なブロックの質感が素晴らしいのだ。
金曜日, 6月 28, 2019
夢のカスタマイズ
コンクリート製品の業界紙「週刊ブロック通信」令和元年6月24日号の巻末コラム「ブロック住宅の系譜」に掲載しています。
夢のカスタマイズ
一年前に半完成品住宅として竣工した「カスタマイズできる家」は、そのまま時間を止めていた。その間に多くの来場者を受け入れ、住まい手(オーナー)に出会う準備の毎日が過ぎた。そして、私が待ちに待ったその日が来た。オーナーは本州から移住されるご夫妻で、平屋住宅の暮らしに、北海道の夢を託しているという。現在、ご夫妻の要望にお応えして、いくつかのカスタマイズを実施している。住まい手(オーナー)不在のまま生まれた「建売住宅」が、注文を受け作りこまれ「注文住宅」に変身、ようやく住まい手(オーナー)の満足を得る。そして半完成品住宅コンセプトがいよいよ実現する。
外観上の大きな変化は、万能小屋と呼ぶ約5坪の小屋をぐるりと囲い、半戸外の木床デッキとしたこと。室内からつながる空間は、開放的で魅力がある。また、カーポートに防雪用木板塀を設けた。これは冬場に威力を発揮する。万能小屋とカーポートの木塀は異なるデザインとし繊細な配慮をしている。
金曜日, 5月 17, 2019
赤心社の物語~人物
建築の設計監理では「地域の歴史」と直接かかわることがあります。かつてかかわった「小樽祝津のニシン番屋」では、私たちを含めた復原チームが発見した一枚の棟札から当時の大工棟梁の個人史が100年の時空を超えてよみがえりました。建築の背後に広がる「地域の歴史」を知ることは、建築の読み解きに大きな力を与えてくれるだけではなく、何より物語そのものが面白いのです。
現在、私は浦河で赤心社という木造の店舗兼事務所を設計監理中です。そこには長い歴史があります。「赤心社は、キリスト者の開拓集団のために北海道日高地方の浦河に設立された組織である。(ウィキペディアより)」始めは開拓集団の中心人物、澤茂吉の話です。
慶應義塾大学出版会による三田評論に北海道の開拓者として紹介されていますので、一部引用します。(2011年11月号~加藤三明・慶應義塾幼稚舎長)
澤茂吉(さわしげきち)は、嘉永6(1853)年、摂津三田藩士の長男として生まれ、明治4年から慶應義塾で学ぶが、二年後、夫に先立たれ、次男、三男を失った母の希望で退塾、帰省して、酪農に従事する。明治8年洗礼を受け、同10年から二年間、神戸ホーム(現神戸女学院)で教鞭をとる。同15年、旧三田藩士を中心とするキリスト教開拓結社の赤心社に入社する。赤心は「まごころ」「偽りない心」を意味し、赤心社は、理想郷を築こうと明治13年に鈴木清らによって設立された結社である。中略。そこで、開拓には優れた指導者が必要だとして茂吉に声が掛かったのである。
写真は、澤茂吉翁の胸像で、浦河町役場荻伏支所の前庭に建てられています。像の製作は、彫刻家・本郷新。
現在、私は浦河で赤心社という木造の店舗兼事務所を設計監理中です。そこには長い歴史があります。「赤心社は、キリスト者の開拓集団のために北海道日高地方の浦河に設立された組織である。(ウィキペディアより)」始めは開拓集団の中心人物、澤茂吉の話です。
慶應義塾大学出版会による三田評論に北海道の開拓者として紹介されていますので、一部引用します。(2011年11月号~加藤三明・慶應義塾幼稚舎長)
澤茂吉(さわしげきち)は、嘉永6(1853)年、摂津三田藩士の長男として生まれ、明治4年から慶應義塾で学ぶが、二年後、夫に先立たれ、次男、三男を失った母の希望で退塾、帰省して、酪農に従事する。明治8年洗礼を受け、同10年から二年間、神戸ホーム(現神戸女学院)で教鞭をとる。同15年、旧三田藩士を中心とするキリスト教開拓結社の赤心社に入社する。赤心は「まごころ」「偽りない心」を意味し、赤心社は、理想郷を築こうと明治13年に鈴木清らによって設立された結社である。中略。そこで、開拓には優れた指導者が必要だとして茂吉に声が掛かったのである。
写真は、澤茂吉翁の胸像で、浦河町役場荻伏支所の前庭に建てられています。像の製作は、彫刻家・本郷新。
木曜日, 4月 25, 2019
物語を生むコンクリートブロック
金曜日, 4月 05, 2019
庭の残雪
4月になり、庭の残雪も少なくなった。5月の連休までしぶとく残る年もあったが、今年はもうすぐ消えそうだ。雪囲いの庭木や鉢植えなどの周りが融けている。根空きとか根開きとか言うそうだ。樹木や植木鉢などに吸収された太陽熱が、積雪に熱を伝えている。熱の伝導、輻射などがつくりだす自然の造形が面白い。なんとも不思議なラインが形づくられている。そして純白の雪が少しづつグレーに染まっていくのも春の訪れならではの光景だ。
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